2017-09-29

食人の形而上学

エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ「食人の形而上学」
を読んだ。

「アンチ・ナルシス」という、とうとう世に出ることの
なかった書物についての紹介というかたちをとることで、
「アンチ・ナルシス」という構想は成立し得るのだろう。
元の書物が不在であることによって特定の分割線への
収束を回避し、「アンチ・ナルシス」が成立している
と見れば、それは松岡正剛が「」で取り上げていた
磯崎新の「始源のもどき」にも通ずるように思う。
西洋で培われてきた学問という伝統が、道徳として
一貫性を求めるために「大いなる分割」を不可避なもの
にしてしまうのであれば、未分化な状態について言及する
にはこういった抽象の重ね塗りが必要なのかもしれない。

別様の理由付けや意味付けがあり、それぞれの範囲も
変わり得るという「多文化と多自然」という見方。
抽象自体がそもそも、複合的なもの、二重にねじれた
ものであり、「理由付けと意味付け」という分割も
また一つの抽象でしかない。
ひとつひとつの抽象はもちろん分割を設定するが、
翻訳、擬、抽象による分割の重なり、交換、循環が、
大いなる分割のないリゾーム的多様体となる。
松岡正剛はそれを「世」と名付けた。
おそらくそれは、一つの視点から抽象すればするほど、
かえって遠ざかってしまう類のものである。

2017-09-28

松岡正剛「擬」を読んだ。

松岡正剛は抽象のことを「編集」と呼ぶが、書名の
「擬(もどき)」というのも、いわば抽象のことだ。

ひとつひとつの擬は何らかの基準をもった模倣であり、
「つもり」と「ほんと」がないまぜになっている。
それはそもそも一つの見方でしかないから大いに
「つもり」でもあるし、それが共有されることで
大いに「ほんと」にもなれる。
「ほんと」というものは、ある擬が一時的にでも共有
されている状態のことを言うのである。

だからこそ、擬くことによってしか見えてこない「世」
なるものは、別様な可能性を秘めたcontingentなもので
あってよく、「あべこべ」で「ちぐはぐ」なものとして
「かわるがわる」擬くのが面白い。
逆に、それをconsistentなものとするために、ある基準、
ある擬だけを共有しようとするのはひどくつまらない。

一つの全体へと収束する傾向、「ほんと」への希求、
アーリア神話、グローバリゼーション、局所の大域化が、
擬の仕方、抽象の基準を固定化することによって現れる
壊死の兆候である一方で、新しい擬をもたらすマレビトは、
発散の担い手、瓦解の兆候となる。
壊死と瓦解のバランスは、擬が「つもり」と「ほんと」の
いずれでもなく、いずれでもあることで成り立っている。

個々の擬がもつ基準は、その擬にとっての道理となるが、
複数の擬が重なり合ったときに、道理までは必ずしも
一致せず、道理の差が生まれると、一方から見た他方の
道理は義理となる。
「借り」や「負い目」によって義理が発生するのは、
新しい擬があてがわれるからなのだろう。
義理が軽んじられていくのは、擬の一元化のためだろうか。
擬き方が一つになったディストピアにおいては、
義理は存在しなくなるだろうか。

この本自体、列挙するのも骨が折れるほどの多数の先人に
よる擬を、松岡正剛が擬いたものである。
専門分化という近代西洋の擬をまたぐ、圧倒的な読書量に
支えられたその編集力、擬きぶりにはただただ感服するが、
松岡正剛の擬をただ単になぞるだけでは主題に反する。
日々「好奇心をもち」、「相手と親しくなり」ながら、
マレビトたらんとして擬き続けるべし。

物理層

物理層は、インターネットを構成するケーブルの配線だけ
でなく、人間の物理的身体や国家の制度など、至るところ
に遍在している。
分散化だ、リゾームだ、プロトコルだ、ネットワークだと
言ったところで、結局のところP2Pな形態に移行できない
のは、物理層の変化がアプリケーション層の変化に比べて
ゆっくりだからなのだろう。

その変化の遅さがつまり短絡の堅実性、ハードネスであり、
それによって複数の抽象過程=身体が重層的に存在できて
いるように思う。
ハードウェアの変化が十分に遅いことで、ハードな「自然」
とソフトな「文化」の分割の共有に支障がなくなると同時に、
その共有によって、ソフトな部分もまた、別な抽象過程に
とってのハードとなる。

人間でありつつ、村でありつつ、国家でありつつ、地球で
ありつつ、臓器でありつつ、細胞でありつつ、原子である
という、抽象過程=身体の重層性。
地球も、国家も、村も、人間も、細胞も、臓器も、原子も、
何かしらの集合であり、集合は基準とともにある。
集団を抜きに真理が存在しないのと同程度に、真理の共有なしには
集団は存続できない。
An At a NOA 2016-07-05 “随想録1
それはそれで見方としてはよいのかもしれないが、要素の
集合が全体になるという、要素還元主義的な発想になり
かねない。
むしろ、それらはそれぞれ抽象過程=身体であり、あらゆる
抽象過程は同一性の基準とともにあるという見方の方が
しっくりくるように思う。

2017-09-27

理学と工学

意味付けに基づく無意識は、端的に特徴抽出であるが故に、
理屈による理解とは無関係、一定のエラーが避けられない、
等の特徴を有しており、それは理学よりも工学に似ている。
逆に、理由付けに基づく意識は理学に近いとも言える。
An At a NOA 2016-07-31 “工学的
理学が、公理という前提とそこから演繹される体系を重視し、
可能な限りデジューレ・スタンダードに留まりながら、
デファクト・スタンダードによる抽象を「予想」や「仮説」
と呼んで区別するのに対し、工学では比較的デファクト・
スタンダードの比率が大きく、デジューレ・スタンダードと
デファクト・スタンダードの区別も曖昧なように思う。

もちろん、理学と工学という区別自体、割と新しいもの
だと思うので、私見による大雑把な比較でしかなく、
どこにどういった線引きをするかだけである。
ものづくりを全くしないのに理論に明るい状態と、
理論は全く知らないのに優れたものを作る状態の間に、
理学者、工学者、設計者、技術者、職人といった、
いろいろな「専門家」の括りがあるだけである。

どのような「専門家」として括られるにせよ、どのように
抽象しているかについて、より明確でありたい。
その明確化はまた一つの理由付けであらざるを得ないが、
それが意識のわがまま、本来の意味でのエゴイズムなの
ではないかと思う。

多文化主義と多自然主義

実在への殺到」でも触れられていたが、自然と文化の
分割の仕方は、問いとして認識されつつあるように思う。

産官学連携、学際、国際交流、LGBTといったかたちで、
文化的な領野における分割は、自然と文化の分割に比べると、
解消し得るという認識が進んでいるように感じる。
それは専門分化によって精緻化してきた近代への反省では
あるが、自然と文化の分割を固定化したまま、文化の部分
だけの再分割に留まることも可能だ。

文化的活動を思考のようなものとしたとき、自然的活動に
あたるのは、目や耳、鼻、皮膚といった感覚器官から情報が
入力されることに代表される。
自然と文化の分割を固定するというのは、世界は人間が
知覚しているように知覚されるものとしてあることを
想定することであるが、機械学習、医療、人類学、動物学
といった分野の知見が拡がるにつれて、その想定も解消し得る
という認識が形成されてきた流れが、「幹―形而上学」のような
未分化な状態を考えるものとして結晶しつつあるのだと思う。

抽象によって形成される秩序が更新される仕方に、堅実的な
ものと投機的なものがあるとして、その両者が理由の有無に
よって弁別されるとすれば、自然と文化の差もまた、理由の
有無になり、
  • 多自然主義は理由なき堅実的短絡である物理的身体の多様性
  • 多文化主義は理由ある投機的短絡である心理的身体の多様性
を受け容れる態度にそれぞれ対応する。
単一文化かつ単一自然という想定に比べれば固定度は低いが、
両者はいずれも、多自然かつ単一文化や多文化かつ単一自然
を主張することができ、自然と文化の分割を固定した状態で
いられることになる。
単一文化かつ単一自然、多文化かつ単一自然の次として、
多文化かつ多自然に至り、自然と文化の分割の解消に向かう
のは妥当な流れである。
つまりは慣れの問題なのだから、AIの理由付け機構も、
いつかは意識として受け入れられることになるだろう。
それは、人種差別の歴史と全く同じ構造をもつことに
なると想像される。
An At a NOA 2017-01-09 “
という予感も、どのようなものであれ、分割の解消、再構成が
困難をはらんでいることに対するものなのだろう。

以上のような話における、自然と文化、堅実的と投機的、
物理的身体と心理的身体というのもまた一つの分割であり、
それはいつでも解消し得るものとして提起される。
すべての抽象過程=短絡は本来投機的なのかもしれない。
An At a NOA 2016-11-18 “非同期処理の同期化
ただし、分割することをやめよというのではなく、別の分割の
仕方があり得ることを認識せよというのが、未分化な状態を
考えるということだと思う。

抽象過程において同一性の基準が陰に陽に設定されることで、
「何を同じとみなすか」が決まる。
抽象過程は同一化であり、分割である。
同一なものがあるのではなく、同一なものになるのであり、
それによって分割が生まれる。
対象の異なる状態を観察者が不断に同一化する。これが同一性の正体です。
小坂井敏晶「社会心理学講義」p.320
単一文化や単一自然は分割の仕方を限定する基盤であり、
分割の仕方が一つになり、何もかもについて分割の仕方が
決められた世界はディストピアである。
反対に、知覚すること、思考することも分割することであり、
分割をやめるのは抽象の拒否による秩序の不在をもたらす。
別の分割を想定した下での分割が、秩序の更新を維持し、
生命を壊死と瓦解の間に留めるのではないか。

Where Qs interact

questionの語源はラテン語quaerereで、ask、seekを意味する。
require、acquire、query、questあたりも語源が同じで、
inquireやinquisitiveもその系列にあるようだ。

そういうものをすべてまとめて「Q」の一字に込めることで、
固定化への抵抗としての発散を表す。
「Q」が交錯することで、更新する秩序としての生命が駆動し
続けられるとよいなと思う。
問いの問いによる問いのためのコウシン

2017-09-26

問いの問いによる問いのためのコウシン

問いの更新 Update of questions
問いによる交信 Communication by questions
問いのための昂進 Enhancement for questions

Interaction of Questions