2018-06-28

写真の虚実

判断の一致によって「真」が定まる過程において、真には実部real partの他に虚部imaginary partが含まれる。

「実部と虚部」という分類は、「物理的身体と心理的身体」や、「知覚と感覚」という分類から生まれ、実realityというのは物理的身体の判断によって定まる真truthの一種だと言える。

実部を取り出すことを「写実photo-realistic」、虚部を取り出すことを「写虚photo-imaginary」と呼べば、真が実部と虚部からなることで、写真にも写実性と写虚性とが綯い交ぜになる。

写真に写実性だけをみて真と実を同一視するのは、近代以降の科学がやろうとしたことと同じ方向を向いている。その機械論的傾向は、写真機を目になぞらえることが多い一方で、現像過程を思考になぞらえることが少ないことにも表れているように思う。

写真が必ずしも写実的でないことが問題になるのは、デベロッパやフィクサの仕事があからさまになり過ぎて、思考を誘導されると感じるからだろう。報道や広告と同様、良し悪しである。

2018-06-27

海辺

海は可能なものをわたしの目に示し続けている
ポール・ヴァレリー「海への眼差し」
「ヴァレリー・セレクション〈下〉」p.11
とヴァレリーは述べた。

海は未だ理由付けられていない自然の宝庫であり、言葉の本来の意味での「未来」のイメージだ。

その手前に溢れる理由付けられた人工との、鮮やかなコントラスト。

海辺は、そんな人工と自然の境界線であり、そこには理由付けされる瞬間としての「いま」の風景が広がっている。

海辺に注がれるテラスからの眼差しは、様々な「いま」の入り混じるものとして、「マネ」「地中海」「パリ」「東洋」を楽しんだのだろう。

その眼差しこそが、ヴァレリーのもつ「きわめて勝手なただひとつの好奇心」の発露なのだと思われる。
それは精神のなかで思い描かれ、対象となり、決定されるさまざまなことがらよりも、精神そのものへ関心をもつということです。
ポール・ヴァレリー「デカルト」
「ヴァレリー・セレクション〈下〉」p.202

2018-06-26

デカルトとパスカル

ポール・ヴァレリー「デカルト」「『パンセ』の一句をめぐる変奏」を読んだ。

一個の「わたし」によるクーデタcoup d'État。自然という多様な現象に溢れた国Étatに対し、「わたし」が果敢に加える一撃coupこそ、精神、意識、思考、投機的短絡であり、デカルトが「方法」と呼んだものだ。

肉体がなくなったとしても、一撃一撃の積み重なりに対して、他人から多様な一撃が加えられることによって、その人は生き続ける。本当に死ぬのは、加えられる一撃が固定化してしまったときだ。

「説得」という行為は、それをする精神の能力が大きければ大きいほど、まわりの精神を殺してしまうものであり、生きたエゴティズムに関心を寄せるヴァレリーにとっては、パスカルほどの能力を有する精神が「パンセ」で垣間見せるデマゴーグ的側面が、受け入れ難いものだったのだと思われる。

生きたエゴティズムの戯れ。デカルト観、パスカル観、ヴァレリー観もまた、各々が一個の「わたし」として思考し続ければよいだけのことだ。

そのような一個の「わたし」でありたいし、そのような一個の「わたし」にあいたい。

2018-06-25

実証的モデル

似たような経験が繰り返されると、そこにパターンをみてしまうのが人間であり、そのパターンを抽象するために、厳密に繰り返される経験が、つまり実験である。

実験によって実証的なモデルを構築するという点では、近代以降の科学と神話は同じである。媒介変数としての時間や、円環的な時間は、実験と相性がよいのだろう。

一方で、歴史という概念が、厳密には同じ状況が来ることはないという発想を含み、直線的で不可逆な時間を想定するのだとすれば、実験という考え方とは相性が悪いのだと思われる。

実証的モデルは、それを抽象する際に用いられたセンサの特性を反映する。神話が場所によらず共通しているのは、人体のセンサが概ね同じであることの現れであり、科学が世界中で通用し得るのは、同じ測定機器を利用し得る限りにおいてである。

他の動物やロボットのように、人体とは異なるセンサをもつ存在にとっては、神話や科学も違ったものになるはずだ。

2018-06-23

天空の矢はどこへ?

森博嗣「天空の矢はどこへ?」を読んだ。

かつて、「神」という絶対的な理由がいた時代と場所があった。そこから数百年をかけて、人間が自分達で作った理由で埋め尽くす方向へ、少しずつシフトしてきた。それは自然を人工に置き換える行為であり、つまりは「理解する」ということだ。

一つひとつの理解は単純でも、それを続ければ膨大な数の理解が積み重なることで複雑になる。複雑化した人工はやがて新たな自然となり、それを理解する過程において、元の人工性は忘却される。そうしてウォーカロンは人間になるのだろう。農作物が自然食品と呼ばれるのと同じだ。

ここから先、人間は理由の担い手であることを放棄する方向に進むだろうか。次に理由を担うのは人工知能だろうか。そもそも個は理由を必要としなくなるだろうか。いずれにせよ肉体に紐付けられた個々の意識は薄れることになるが、共通思考の志向する方向とは一致するように思う。

イシカワの社員、カンナ、マガタ・シキ。
あるいは、人間、人工知能、神。
それぞれの天空の矢はどこへ行くのだろう。

2018-06-22

揮発性

更新される秩序を生命と呼ぶならば、更新による変化がなくなった秩序は、既に死んでいると言える。ヴァレリーはこのことを固体と液体の比喩で表現した。

固体と液体のあいだで相転移しながら流動する生命の大部分が、死とともに揮発してしまった後でも、貝殻、化石、書物、建造物などの残滓が、その生命の面影を宿す。

揮発性メモリとしての作者と、不揮発性メモリとしての作品。

作品もいつかは揮発してしまうが、少しでも不揮発性を高めようとする傾向が葬制につながったのだとすれば、作品を残すこともまた、人間的な行為なのだと思われる。

源は水の元。

雨として降り落ち、
地に染み入った水は、
やがて染み出し筋をなし、
川と呼ばれるほどに育った後に、
海としてたゆたう。
そしてまた空へと昇る。
その循環に始まりはあるだろうか。

水の元は定かでなく、
定められることによって
定かになる。

あらゆる源もまた同じであるが、源を辿り、それを共有する過程には、直線状に不可逆に進む時間の概念が現れており、最も人間的な行為の一つであるように思う。

語源etymologyという語が、ギリシャ語のἐτεός (true)に由来するのは、定められた源が真実となることを示すようで面白い。

ちなみに、日本語では時間的にも空間的にも「源」だが、英語では時間には「origin」、空間には「source」という使い分けがあるように思う。

2018-06-21

人と貝殻

ポール・ヴァレリー「人と貝殻」を読んだ。

このエッセイには透明感がある。
天才の空っぽさに通ずる透明感だ。

貝殻を前にして繰り返される素朴な問い。
いったい、だれがこれを作ったのだ
ポール・ヴァレリー「人と貝殻」
「ヴァレリー・セレクション〈下〉」p.157
このあまりに人間的な問いに、意識による理由付けの有り様が集約されている。shapeは背後にcreationを暗示する。

固体から、液体の相を経て、固体へと移る《生きた自然》は、収束と発散のあいだで揺れながら、一つの全体をなす。貝殻の形成過程もその一つだ。

「因果律」にしむけられてそれを「理解」することによって、有用性、《完成した》、必要性、《偶然》、理由、意図、…、その他もろもろの人間的な説明が生まれ、《生きた自然》の非線形性は線形性の組み合わせへと解体される。

「理解」することを通して、私は貝殻の形成過程を、その《生きた自然》を、果たして捉えられたのであろうか。

たとえ結論にはいたらずとも、貝殻に呼び寄せられた多くの思考との戯れが、一つの《生きた自然》をなすように思われる。

2018-06-19

逸脱の対義語

逸脱 = 逸れる + 脱する。
英語だと「deviate = de (off) + viate (way)」。
スティーヴン・グリーンブラットの書いた本の題名「SWERVE」も逸脱を意味する。

逸脱の対義語としては、「服従、遵守・順守、従属、順応」のように、「したがう」と訓読する漢字が入るイメージがある。「守破離」の「離」が逸脱だとすれば、「守」が入る「遵守」もよさそうな気がする。

社会学や心理学ではconformity and devianceがセットであり、conformityの訳語は「同調」であるようだ。conformityは「一致、遵守、調和」などとも訳すことができる。

逸脱のない調和harmonyによって意識が不要になることを描いたのが「ハーモニー」であった。

エロスの涙

ジョルジュ・バタイユ「エロスの涙」を読んだ。

理性による労働がつくる習慣的な流れと、それを中断する、笑い、涙、遊び。

演繹的側面と逸脱的側面からなる過程は、パースのアブダクションと同じであり、個人的には「投機的短絡」という表現がしっくりくる。

投機的短絡によって投機的短絡の過程自体が抽象されることが意識の端緒となるが、労働的な演繹過程だけでは壊死へと固定化する一方であり、おそらく意識は維持されない。

労働の習慣的な流れからの遊び的な逸脱、陰に陽に禁止される逸脱の過程によって、意識が意識を意識するという自意識のプロセスが駆動し続けるのだと思われる。そのプロセスにおいては、sujetとobjetの関係が解体、再構築されることで、両者の不連続性は絶対的なものではなくなる。

行き過ぎた逸脱は発散へとつながり、壊死とは別の瓦解という死をもたらすが、逸脱しなければ壊死する他はない。壊死を免れつつ、瓦解には至らない逸脱のことを、バタイユは《小さな死》と呼んでいるように思う。

エロティシズムもまた《小さな死》の系列にあり、それらは単なる発散なのではなく、固定化の流れを踏まえた上での発散、アポロンがいた上でのディオニュソス、古典主義を受けた上でのマニエリスムであり、壊死と瓦解のあいだにある逸脱のことを言うのだと思われる。

慣習、アポロン、古典主義といった正統派は、逸脱を「永続的でないもの」として怖れるが、逸脱によって意識が駆動し続けるのであれば、人間を人間たらしめるのは逸脱なのである。
意識的でないものは、人間的でないのだ。
ジョルジュ・バタイユ「エロスの涙」p.298

2018-06-18

完璧な安全

変化が止むことのない世界においては、「完璧な安全」という観念そのものが、安全に対する脅威の一つになる。

2018-06-17

夢の宇宙誌

澁澤龍彦「夢の宇宙誌」を読んだ。

ひたすらに部分を志向し、分化を続ける、真面目で古典主義的で労働的な固定化の流れの行く末には、壊死しかない。

部分ではなく全体を志向するバロック的で遊び的な逸脱によって、その収束過程から飛躍し、未分化を経て別の分化へとメタモルフォシスする。その夢想したもうひとつの分化形態、貝殻のようなユートピアに、自動人形、天使、アンドロギュヌスが戯れる、球体の完全性をみる。

既存の判断基準に絡め取られた末の壊死を避ける衝動的な飛躍こそ、生殖本能ともセクシュアリティとも区別される、「こちら」の拡張としての愛欲の本質なのだろう。

2018-06-16

その世

この世に生きているわけでもなく、死んであの世にいるわけでもない。

人形の超然さには、その世という言葉がしっくりくるように思う。

「ソ」のリズムである。

2018-06-14

文明

直接コミュニケーションを取って判断基準を共有することを「見知る」と表現すると、文明とは、見知らぬ人間同士が間接的に判断基準を共有することで密集した状態だと言える。

その判断基準の共有は、国家などの間接的なコミュニケーション機構によって媒介されており、それによって文明人は、至近距離の見知らぬ相手から危害を加えられる可能性に目をつぶることができる。

見知らぬままの赤の他人とどこまで物理的に接近できるかは、文明化の一つの尺度になり、満員電車や渋谷の交差点などは最高に文明的だと思うが、目をつぶった危害の可能性は、決してゼロにはならない。

危害の可能性の端的な発露である通り魔の蔓延は文明の病であるが、その対策を間接的なコミュニケーション機構だけに頼る解決方法の先にはディストピアしかないように思われる。しかし、至近距離の相手と見知ることによって危害の可能性を減らすという選択肢が閉ざされつつある現状では、それ以外に選択肢があるのかは大いに疑問である。

主客のハーモニー

一体だったsujetとobjetを対立させたのは、近代の発明だろうか。

近代的なsujetはobjetのひっかかりによって維持されるため、sujetはobjetをひたすらに蒐集する。そのひっかかりとは、sujetとobjetを内と外として峻別する膜のことであるように思う。

伊藤計劃「ハーモニー」で、御冷ミァハは後天的に意識を実装したと描かれるが、本来はすべてのsujetが、言語や文化、常識などの膜によって後天的に獲得される。多くのsujetは、そのことをほとんどの時間において忘れているだけだ。

そのことを束の間強制的に思い出させるかのように、sujetとobjetを隔てる膜を消し去るハーモニー・プログラム。その是非を判断する役目は、何が担えるだろうか。

少女コレクション序説

澁澤龍彦「少女コレクション序説」を読んだ。

少女というからっぽなobjetのコレクション。
その窮極としての人形愛。
バランスを取るかのように、sujetはナルシシズムへと向かう。

ひたすらにobjetを蒐集するのは、確固たるsujetになるためだろうか。

人形を愛する者と人形とが同一なのであれば、sujetとobjetは表裏一体ということなのだろう。

2018-06-12

セーラー服と女学生

弥生美術館で開催中の「セーラー服と女学生」を観に行ってきた。

大正期のセーラー服は着物にも似ているという江津匡士の話は、なるほどなあと思う。プリーツスカートなんか女袴そのものだ。

肌の露出が少ないことやスタイルが強調されないこと、黒髪や三つ編みが似合うことなどが、抑制された感じを醸し出すことで、対象はオブジェに近づく。

澁澤龍彦が「少女コレクション」と呼んだ情熱が、セーラー服と女学生の結びつきをここまで定着させたのではないかという気もしてくる。

2018-06-05

分別

具体的な物体を区別するときは「ぶんべつ」。
抽象的な概念を区別するときは「ふんべつ」。

VR空間に存在する対象を区別するときは、どちらになるだろうか。

もし「ぶんべつ」になるのであれば、「ぶんべつ」と「ふんべつ」の違いは、視覚情報の有無によるのかもしれない。

あるいは、VR空間の対象の捉え方が、概念から物体に変化したのかもしれない。

2018-06-04

腕時計

腕時計は、近代が発明した絶対時間の手枷であるように思う。

限りなく精確かつ半永久的に時間を刻む機械を肌身離さず持ち歩くことによって、絶対時間という看守による監視watchが四六時中作動し続けるという点で、腕時計watchはパノプティコンと同等の監視機能を有する規律型の装置であると言える。

若者の腕時計離れは、規律型から管理型への移行を反映しているのだろうか。

移行先であるスマートフォンにインストールされた、電話、チャット、カメラなどの無数のアプリを用いて行われる、多種多様かつ密なコミュニケーションがなす網のことを、管理型の装置とみなせるだろうか。

複雑なものの単純化

3Dスキャン、3D解析、3Dプリントを組み合わせれば、こういう複雑なものも作れるようになりつつある。

物質的なレベルでの単純化が不要になったとしても、その物体について理解し、説明し、納得するという、人間の人間による人間のための単純化は、それを人間が使う限りは必要なのではないかと思う。

設計とは、複雑なものを単純化する過程であり、具体的なレベルでの設計がブラックボックスの中に覆い隠されることで物体が複雑化していったとしても、抽象的なレベルでの設計が明快であることが、人間にとっては必要なのではないかということだ。

抽象的な設計をも省略するようになるとしたら、もはやその物体はハードウェアとして組み込まれているも同然であり、人間はその物体を、意識的にではなく、無意識的に使用することになる。それをよしとする選択肢も、当然あるだろう。

空っぽ

知識にしろ、夢にしろ、肉にしろ、脂肪にしろ、何かが詰まったものに魅力があるのは確かだが、その一方で、空っぽさの中に詰め込める可能性が見出されることで魅力につながるというのは、とても人間らしいように思う。

超然としていながら、いつでも空っぽになれる。人形は、そのような天才性を帯びる可能性を秘めているのかもしれない。

声の具体性

音楽と言葉を抽象的な記号体系と捉えると、同じ情報を符号化するときの媒体や方式の違いが際立つが、もっと具体的なレベルで捉えると、両者の区別は曖昧になる。その最たるものがであり、歌声と話し声は滑らかに接続されている。

人形が物質性をもたなければならないように、声もまた、振動する息の流れという具体的なものに支えられており、個々の身体の違いが声音となって現れることで、声の具体性が身体の同一性につながっている。

abstractに対するconcrete、generalに対するspecificの両方の意味において具体的なものであることが、人形や声にとって大切なことなのだと思われる。

2018-06-03

三浦悦子人形展覧会

マリアの心臓で開催中の「三浦悦子人形展覧会」を観に行ってきた。

人形をじっくりと観たのは初めてかもしれない。三浦悦子の人形以外にも、天野可淡や恋月姫のものや、市松人形なども数多く展示されていた。

こちらがみつめても決してみつめ返すことなく、つくられた時点での抽象作用を超然と維持することで、自らの現実を提示し続ける。とりわけ、天野可淡の人形が提示する現実は、超然さが際立っていたように思う。

観賞する人間とは決して同じ現実を構成せず、人間がそれを虚ろなものに感じることこそが、人形の人形たる所以なのだろう。

つくられた瞬間から壊死し続けることによって獲得される人形の超然さ。人間がそれを獲得できるとしたら、死の直後の一瞬を措いて他にはないだろう。

人形論

金森修「人形論」を読んだ。

こういう人形論を読んでみたいと思っていた。

無関心な物理世界を、意味付けや理由付けによって単純化する〈亜物〉化の過程によって、存在が生じる。そのプロメテウスの精神の発露が、自らの周りのほんの一部に限られることで臨在性が生まれ、愛玩へとつながるが、依然として物質性を帯びていることで、自存性も保たれる。〈亜物〉には自存性と臨在性が共存しており、近いようで遠いような存在感を有している。

臨在性の究極として、自らと同じ存在として〈亜物〉化しようとする過程によって〈亜人〉が生まれ、その極限に〈人間として見做す〉ことに支えられた人間が存在する。臨在性の高まりに合わせて、高い自存性が要求されるために、〈亜人〉性や人間性を帯びるには、物質性の観点からも厳しい判定をクリアしなければならない。このプロメテウスからピュグマリオンへの跳躍が、生命と非生命、人間と人間以外、人形と彫刻といったものの違いにつながる。一つの時点での〈亜人〉化を超然と維持する人形には、〈清潔な人間〉という表現がとてもしっくりくる。

著者自身が言うように、物質性をもたなければならない人形によって示されることと、その抽象的な把握である人形論によって語られることの間に大きな隔たりがあるのは確かだが、人形にまつわるコミュニケーションを抽象する過程そのものが、「大規模な環境に抗うように、自分の周囲に〈人間的なものの痕跡〉を残す」行為であり、人形論そのものに、どこか人形に似た部分があるように思う。