2018-06-19

エロスの涙

ジョルジュ・バタイユ「エロスの涙」を読んだ。

理性による労働がつくる習慣的な流れと、それを中断する、笑い、涙、遊び。

演繹的側面と逸脱的側面からなる過程は、パースのアブダクションと同じであり、個人的には「投機的短絡」という表現がしっくりくる。

投機的短絡によって投機的短絡の過程自体が抽象されることが意識の端緒となるが、労働的な演繹過程だけでは壊死へと固定化する一方であり、おそらく意識は維持されない。

労働の習慣的な流れからの遊び的な逸脱、陰に陽に禁止される逸脱の過程によって、意識が意識を意識するという自意識のプロセスが駆動し続けるのだと思われる。そのプロセスにおいては、sujetとobjetの関係が解体、再構築されることで、両者の不連続性は絶対的なものではなくなる。

行き過ぎた逸脱は発散へとつながり、壊死とは別の瓦解という死をもたらすが、逸脱しなければ壊死する他はない。壊死を免れつつ、瓦解には至らない逸脱のことを、バタイユは《小さな死》と呼んでいるように思う。

エロティシズムもまた《小さな死》の系列にあり、それらは単なる発散なのではなく、固定化の流れを踏まえた上での発散、アポロンがいた上でのディオニュソス、古典主義を受けた上でのマニエリスムであり、壊死と瓦解のあいだにある逸脱のことを言うのだと思われる。

慣習、アポロン、古典主義といった正統派は、逸脱を「永続的でないもの」として怖れるが、逸脱によって意識が駆動し続けるのであれば、人間を人間たらしめるのは逸脱なのである。
意識的でないものは、人間的でないのだ。
ジョルジュ・バタイユ「エロスの涙」p.298

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